私は幼いころ、さんざん母の意向に背いては殴られたが、私は「テロには屈しない」とばかりに適当にやりすごしつつ、「殴っても無駄だということを学んでくれないかな」と期待していた。もちろん母は学ばなかったし、また私のほうも、母の意向に従うことを学ばなかった。
狂気:同じことを何度も何度も繰り返して、違う結果を期待すること。
母のフレームには、「殴るという手段は無効かもしれない」という問題は入っていなかった。人間がフレーム問題を解決していないことの例証だ。
かくして私は、「人は学ばない」ということを学んだかもしれないが、はたしてどの程度学んだのかは怪しい。状況によっては頭から消える(まさにフレーム問題!)可能性はきわめて高い。まさしく「人は学ばない」のだ。
人を教える立場の人間も、やはり学ばない。アホな指導をすれば人が死ぬということを学ばない。人は学ぶ動物ではなく、信仰する動物である。人は「シゴキ」や「根性」や「精神」や「体罰」を信仰し、その効果を「実感」する。信仰であるからには検証を受け付けない。
信仰がすべて間違っているとは思わない。物理的限界に縛られた存在にはフレーム問題は解決できないので、なにも信仰しない人間はただ座り込んでいることしかできない。しかし信仰にもよしあしがある。自分では学ばない人間が、他人に学べと要求して暴力を振るう光景は、残酷を通り越して笑うしかない。
かく言う私も、信仰しているのだろう。検討すべき副次的な問題は事実上無限にあるはずなのに、現にこうして行動しているからには、ほとんどの問題を無視しているはずであり、無視した問題については母と同じように、同じことを何度も何度も繰り返して、何一つ学ばないはずだ。